置かれた場所で咲きなさい、
という言葉を多くの人が聞いたり目にした事があると思うけど、
その言葉にわたしはムズムズっとしたものを感じてきている。
何に対してムズムズするのかは、
誰かに無理やり置かれた場所、とも、
誰かの愛情によって与えられた場所、
とも取れる曖昧な表現に対してと、
「誰かに与えられた場所」というものを肯定的に感じる人生の人と、
否定的に感じる人生の人がいる、
という事への配慮のなさ、だと思っている。
ちなみに、この言葉がタイトルになっている書籍は読んだことはない。
著者が感銘を受けたという大元の詩は読んだ事がある。
Bloom where God has planned you
という言葉で始まる詩なんだけど、
神を信仰していないわたくしめのような人間が読んでもあんまりピンとは来ない感覚があったのと、
結局のところ、与えられた環境を否定したい人へ対する配慮はなかった記憶なので、
置かれた場所で咲きなさいというものへのムズムズは解消はしなかった。
人は誰しもが承認欲求というものを持っていると思うけど、
10代から30歳ぐらいまで、その欲求が強く出る時期で、
その間に「自分らしさ」というものの基礎が出来、
「自分らしさ」を模索・構築するために取捨選択したものが、
30歳以降の人生に大きく関係してくるように思う。
年齢なんて関係ないとは思うけど、
30歳の時にいる場所が、その後の人生の基盤である場合は大きい。
逆に言えば、30歳前後の時に、
「君はこの場所ではないのではないか。もっと他にあるはずだ」というような近しい年配の人からの助言があった場合、
そのアドバイスってけっこう正しかったりもする。
置かれた場所ではなく、
あなたの場所で咲きなさいって言葉の方が、わたしはいいな。
人は誰もが、
その人にふさわしい、その人にしか形成する事が出来ない場所がある。
その場所は、
頑張って掴みにいくものではなくて、
大人になるまでの過程で自然と掴んできた、日常化した生活の中にある気がする。
ちなみに夢があって、
頑張ってでも掴みとった先で咲きたいんだって人は、
今いる自分の環境をガラっと変えて、人間関係もガラっと変えて、
なりたい自分にふさわしい日常を、力技でも自分に与えてしまうのが近道だとわたしは思います。
日常って、その人から滲み出て、こぼれ落ちるものだと思うので。